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広島と海苔の歴史

広島と海苔の歴史

海苔養殖の準備が進められている様子(1960年頃の仁保)

海苔は(牡蠣と同様)海水と淡水が適度に混ざり合う海域でよく生長するため、広島湾岸でも木や岩に着生していた。このため、沿岸の人々はそれを手で摘み取り食用にしていた(寛文3年(1663年)「芸備国郡志」に食用、あるいは乾燥させたものを地方へ送っていたとの記述がある)。

1658年(万治元年)に仁保島村(現在の仁保あたり)でうすく伸ばして乾燥させた海苔(えびらと呼ばれる簾状のものに広げて作られたため、えびら海苔と呼ばれたとされる)が作られ始め、3年後にはえびら海苔を藩主の浅野家に献納したとされる(その後、1687年には幕府へ仁保島海苔を献上した記述や、1717年の幕府の巡見使への報告の中に領内名物との記述がある)。

当時の広島では、このえびら海苔が主流で、現在「海苔」として一般的な「漉き海苔」が作られるようになったのは1810年ころから淵崎(現在の向洋近辺)で考案され、その後、江波村(現在の江波)で完成されたとされる。

広島の海苔養殖の起源は明らかではないが、化政期に入り、えびら海苔から「漉き海苔」へ製法が変わっていった。これにより、海苔養殖が飛躍的に発展していった。

ところが明治に入り、広島湾に広がっていた広大な干潟が埋め立てにより消滅していく(庚午、宇品地区など)。
但し、明治12年には広島の海苔水揚げ収量は全国一となっていて、昭和30年代まで海苔養殖技術の発展により海苔の生産量も安定していった。
この後明治以降相次ぐ湾岸開発により養殖場も狭められ行き、昭和46年西部開発事業(現在の商工センター)の起工により広島市の海苔養殖は、ほぼ終焉を迎えることとなった。
明治期からの湾岸開発事業が進むにつれ、市内に海苔の加工業(いわゆる焼海苔、味付海苔)を営むものが増え、またその加工技術発展において広島が大変大きな役割を果たしていく。

日本で初めて味付海苔を製造したのは、東京の海苔問屋とされるが、問屋業務のかたわらで付随業務として行われていたようである。そして、東京以外の地で味付のりの量産化に成功したのが広島である。(大正10年ころ)広島の大河地区の海苔養殖業者が味付の製法を独自に考案し、商品の量産化を次第に進めていき、昭和10年には加工組合が形成するほどに加工業者が増えていく。
実は広島は加工海苔が発展する必然性があったと考えられる。

  1. 広島の海苔の養殖場は当時の軍需用、軍事用として取り上げ(埋め立て等)られたため、海苔の生産量の落ち込みが激しいものであった。
  2. 養殖場を失った生産者、地元海苔の取扱量の減った問屋、統制により、仕事の無くなった浜問屋など、それぞれが収入減を補うため加工海苔業に加わっていった。
  3. また、広島の地が陸海軍向け食材取扱地であったため、食品加工が盛んなところであった。

これらに加え、広島の味付海苔とそれまでの味付海苔の大きな違いは味付用の「タレ」にあったようである。これまでの味付手法は(東京式と呼ばれていたようである。)醤油、味醂、ザラメを煮て刷毛で塗ったものであった。これに比べ、広島式と呼ばれた味付のりに使われた味付のタレには「出汁(だし)」が含まれており、これによるところが大きいものであったとされる。このタレには、当時のエビやイリコでだしをとるという広島の料理慣習に沿ってつくられたといい、その後、改良により昨今、一般的に流通している味付海苔の味が確立していったようである。

これは広島県内に海苔商社(海苔問屋)をはじめ、多くの海苔加工業者がおり、各社がそれぞれ「こだわった」味付タレを用いて製品を製造していることからも伺える(現在県内に30〜40社(業界に加盟を届けていない業者を含め)。

山城屋の沿革 山城屋の沿革
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1960年頃の広島の海苔養殖の様子
(大下隆雄氏撮影、広島市郷土資料館提供)

 

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